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スワミ・ラーマが体験したシャクティパータ

 

私はサマディーを体験したいという欲望にとりつかれていた。

師は言った。
「四時間まったく動くことなく座れるようにならない限り、サマディーは決して悟れん。」

それで私は子どもの頃から座り続けてきた。
他の何よりも、私の時間はサマディーを体験するため座ることにつぎこまれた。

-しかし、そこに至ることはなかった。

様々な書物を学び先生にはなっていたが、じかに体験したのでない、間接的な叡智を授けるのはよくないことだと感じていた。

こうして僧院で僧侶に教えるより、大学かどこかで哲学を教えていたほうがいい。

私は思った。
「これは決していいことではない。私は覚醒していない。直接的な体験でなく、書物から学んだこと、師から学んだことを教えているだけだ。」

ある日、私は師に言った。
「今日、私はあなたに最後通達を申しあげます。」

師は言った。
「何だ?」

「私にサマディーを授けるか、さもなくば、私は自殺します。」
心からそう決意していた。

師が尋ねた。「本気か?」

「ええ!」

すると師は穏やかに言った。
「愛する息子よ、ではそうしなさい。」

師がそう言うとは予想していなかった。

「10日か15日待ちなさい。」
そう言われるものと思っていた。

師が私にたいしぞんざいだったことは一度もなかったが、そのときの師はあからさまだった。

師は言った。
「夜眠ったところで問題は解決しない-次の日直面するだけだ。それと同じで、自殺しようと問題の核心は解決しない。来世で直面することになる。おまえは太古の経典を学び、理解した。それでも自殺を口にする。だが、本当にそうしたいならそうしなさい」

私はいつもシャクティパータのことを聞いていた。

シャクティは「エネルギー」、パータは「授ける」の意だ。

シャクティパータとは「エネルギーを授ける、ランプに炎をともす」の意になる。

私は言った。
「あなたは私にシャクティパータをしてくれたことがありません。あなたにはシャクティがないか、しようと思っていないかのどちらかだ。これまで実に長い間、私は目を閉じ瞑想してきましたが、何も起こらず頭が痛くなるばかりです。時間のむだでした。人生に歓びなどありません。」

師は何も言わなかった。

私は続けた。
「私は熱心に、真摯に努力を重ねてきました。あなたは十四年かかると言いました。今年は修養の十七年目、あなたが私にするように言ったことは全部してきました。」

師は言った。
「それは確かか?私が教えた修養に真にしたがってきたのか?おまえが自殺するというのが、私の教えの結実なのか?」

師は尋ねた。
「いつ自殺するつもりだ?」

「今です!自殺する前に、こうしてあなたにお話ししているのです。あなたはもう私の師ではない。すべて捨てました。私はこの世にとっては無益、あなたにとっても無益だ。」

私はガンジスに身を沈めようと立ちあがった。
川はすぐそばだった。

師が言った。
「おまえは泳ぎができる。ガンジスに飛び込んでも自然に泳いでしまうだろう。おぼれて浮かんでこない方法を考えたほうがいい。体におもりをつけるといいだろう。」

師は私をからかっていた。

私は言った。
「どうしたというのです。あんなにも私を愛してくれたのに。」

そして続けた。
「では、私は行きます。ありがとうございました。」

私は縄をもってガンジスに行き、大きな石をいくつか体にくくりつけた。

師はとうとう私が本当に真剣なのに気づき、私を呼び言った。
「待て!そこに座りなさい。一分でサマディーを授けよう。」

私には師が本気なのか分からなかったが、思った。
「少なくとも、何が起こるか一分なら待てる」

瞑想の姿勢で座ると、師が来て私の額にふれた。
私はその姿勢のまま九時間座り続け、この世のことはひとつとして想わなかった。

通常の意識に戻った私は、まだ同じ朝の九時だと思った。
サマディーは時間を消失させる。
私は許しを乞うた。

「マスター、私をお許しください」

師が額にふれてまず私がなくしたのは、恐れだった。
それから、利己心がなくなっているのに気づいた。
私の人生は変わった。
以来、私は人生というものを正しく理解するようになった。

のちに私は師に質問した。
「あれは私の努力によるものですか。それともあなたの力ですか?」

師は答えた。
「恩寵だ。」

「恩寵とは何か。人は神の恩寵のみで覚醒すると考える。そうではない。」
師は言った。

「人はできうるかぎり真摯に努力を重ねなければならない。力つき、献身の極みで絶望に泣き叫ぶとき、忘我に達する。それが神の恩寵だ。恩寵とは、誠実に真摯に重ねた努力により授かる結実だ。」

私は今、シャクティパータとは、長期にわたる統制、禁欲、霊性修養をへた弟子にのみ可能なことだと理解している。

一般にいわれるシャクティパータは、私にすれば疑わしい。

弟子に準備ができたとき師が現れ、ふさわしいイニシエーションを授けるというのは本当だ。

生徒が誠心誠意、真摯にサーダナ(行)を行うとき、師は最も精妙な障害をとりのぞく。

覚醒という体験は、弟子の真摯な努力から生じる。

次のように言うこともできる。

自らの責務を巧みに心のすべてで行うとき、恩寵に満ちたその結実を刈りとる。

恩寵は行いが完了したとき降りそそぐ。

シャクティパータとは、師をつうじた神の恩寵である。

 

(スワミ・ラーマ著 “ヒマラヤ聖者とともに 偉大な霊性の師と過ごした日々” より抜粋)

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